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制度と実感の接続

  正しさと苦しさのあいだで、問いを立てなおす

正しいはずなのに、なぜか苦しい

「自由にしていいよ」と言われて、なぜか不自由を感じる。
「あなたのためを思って」と言われた言葉に、息苦しさを覚える。
「きちんと制度が整っているはずなのに、なぜかうまくいかない」場面に出会う。

こうした違和感は、個人の内面や感受性の問題とされがちです。
けれど私たちはそこに、 制度と言葉とが設計する世界 と、 個人の身体や感覚とのあいだにある断絶 を見ています。

制度や仕組みは「こうあってほしい」という意図や価値観を形にする手段です。
教育、医療、福祉、家族、労働——社会のあらゆる領域に制度は存在し、それらは人々の暮らしを守り、秩序を保ってきました。

けれど、その制度と、そこに生きる人間の「実感」とのあいだには、しばしばズレや摩擦が生まれます。
そして、そのズレはときに「わかっているのに、できない」「正しいはずなのに、しんどい」という形で立ち上がります。

この章では、その制度と実感のあいだに生じる断絶に目を向け、 構造の設計を問い直す視点 について考えていきます。

 


制度とは何か、実感とは何か

制度とは、人が人と関わるための枠組みです。
法律や組織だけでなく、「家族とはこうあるべき」「先生はこうふるまうべき」「こう言えばやさしい」といった、 共有されたふるまい 期待 もまた制度的なものだといえます。

一方で実感とは、言葉になる前の感覚や、身体に残る反応、感情の揺れのことです。
それは制度に先んじて立ち上がることもあれば、制度によって抑圧されて初めて浮かび上がることもあります。

制度が「外側から設計された形」だとすれば、実感は「内側から立ち上がる経験」です。
この両者のあいだにズレがあるとき、私たちは違和感や苦しさを感じます。

そして、その違和感を個人の責任に帰すのではなく、 構造のズレとしてとらえ直すこと が、私たちの研究の出発点です。

 


 なぜ「自由」が不自由に感じられるのか

たとえば、ある場面で「自由にしていいよ」と言われたとします。
けれどその「自由」が、何かを決める責任を一方的に負わされることだったとしたら?
あるいは、実際には選択肢が限られているにもかかわらず、自由という言葉だけが前面に出ているとしたら?

そのとき人は、「自由にしていい」と言われながら、なぜか動けない自分に戸惑い、苦しむことになります。
それは、制度としての「自由」と、個人の実感としての「不自由」とのあいだに、 翻訳不全が起きている ということです。

私たちは、このような翻訳の失敗や行き違いにこそ、制度の設計を見直すヒントがあると考えています。
つまり、 言葉が意図したことと、実際に届いている感覚とのズレ を手がかりに、構造の見直しを始めるのです。

 


わかっているつもりが生むすれ違い

制度だけでなく、言葉や常識にも構造があります。
たとえば、「ちゃんと話せば、わかってもらえる」「説明すれば、理解してもらえる」という前提は、教育や福祉の現場でもよく使われる言葉です。

けれど、話すことが苦手な人や、言葉にしにくい感情を抱えている人にとって、その前提は時に暴力的にすら感じられます。
「話せない自分が悪い」と感じさせられたり、「うまく言えなかったこと」によって、関係から外されてしまう。

こうした場面では、「わかっているはず」「わかってほしい」という善意が、すれ違いを深めてしまうのです。
私たちは、このような 言葉と実感のすれ違い にも、制度と構造の問題が潜んでいると考えています。

 


ズレを個人の問題として処理しない

「あなたがもっと自信を持てばいい」
「ちゃんと伝えれば、きっと伝わる」
「それは気にしすぎなんじゃない?」

こうした言葉が、制度や構造のズレを 個人の内面の問題にすり替える 場面は、日常のあちこちで起きています。
そうして、人は「もっとちゃんとしなきゃ」「自分が弱いからいけないんだ」と、自分を責めていきます。

けれど、ほんとうにそうなのでしょうか。
その人の「弱さ」ではなく、 制度や言語の側にある設計ミス の可能性はなかったでしょうか?

違和感や苦しさを、ひとりの感受性のせいにしないこと。
そこに、構造の不整合や翻訳不全があるのではないかと問いなおすこと。
それが、 制度と実感を接続しなおす第一歩 です

接続のための構造的想像力

制度と実感のあいだにあるズレを解消するためには、「どちらかに合わせる」という発想では足りません。
「制度が悪いから壊せばいい」「感情が強すぎるから抑えればいい」といった極端な判断では、 接続の回路はひらかれません

私たちが求めているのは、 制度を実感に引き寄せる、構造的な想像力 です。

・その制度は、誰のために、何を前提に設計されているのか?
・その言葉は、どのような経験や文脈を想定しているのか?
・目の前の「できなさ」や「苦しさ」に、制度の側から応答する余地はあるのか?

こうした問いを立てながら、 制度の構造自体を見直し、編みなおす こと。
それが、実感に応答する制度設計の出発点です。

 実感から設計を問いなおす

グラフトーンラボにおける研究は、現場の実感を大切にします。
それは、 制度の外側にある主観的な声 を重視するという意味ではありません。
むしろ、制度の中で見落とされがちな実感にこそ、構造のゆがみや設計の限界があらわれると考えているからです。

・なぜ、その制度では「やさしさ」が届かないのか?
・なぜ、説明しているのに、すれ違ってしまうのか?
・なぜ、「正しさ」が、人を苦しめてしまうのか?

こうした問いを、 実感という感覚の層から構造の層へと翻訳する こと。
それが、研究としての姿勢です。

構造に応答するという実践

制度と実感の接続とは、個人の理解や適応を求めることではありません。
また、制度批判を目的としたものでもありません。

それは、 構造がどのように人の実感とズレているのかを観察し、必要に応じてその設計を編みなおしていくという実践 です。
そしてそのためには、目の前の違和感をただの個人の問題として片づけず、 構造のゆがみとして見立て直す態度 が必要になります。

私たちは、「わかっているのに苦しい」場面から問いを立てなおします。
制度の言葉が届かないときに、言葉の側から変わる選択肢を模索します。

実感の声から出発し、構造へ応答していくこと
その往復の中に、グラフトーンラボが目指す「研究」の実践があります。

 

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